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エポカ探訪

掛川市吉岡彌生記念館

 日本で 27 番目の女性医師であり、東京女子医科大学創立者の吉岡彌生。医師を目指す女性のために道を切り開き、女性の社会的地位発展のために尽力した彌生は、静岡県掛川市で生まれ育ちました。

 今回のエポカ探訪は、吉岡彌生の偉業を顕彰するために建てられた掛川市吉岡彌生記念館を巡ります。

 

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 吉岡彌生 年表

・1871(明治4)年3月 10 日、現在の静岡県掛川市生まれ

・医師を目指して上京、東京の医学校では唯一、女子に門戸を開いていた済生学舎で学ぶ。

・1892(明治 25)年、医術開業試験後期試験に合格、日本で 27 番目の女性医師となる。

・故郷で開業した後、医学の本場ドイツへの留学を夢見て再び上京。上京後は、ドイツ語を学びながら医師としても活躍。

・母校の済生学舎が女子学生の受入れを拒否したことを機に、1900(明治 33)年、東京女医学校を創立。1912(明治45)年、

   専門学校に昇格。1952(昭和27)年、東京女子医科大学を開校。医学教育の他、さまざまな要職も務める。

・1959(昭和 34)年 5 月 22 日、教育界、女性の社会的地位向上にも偉大な功績を残し、88 歳で生涯を終える。

 

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 掛川市ののどかな山あいに、掛川市吉岡彌生記念館はあります。同記念館では、彌生の年表、資料、映像等の展示室や、彌生の生家である鷲山医院および長屋門が移築・復元されています。

 敷地内を学芸員の伊藤さんが案内してくれました。

 

掛川市吉岡彌生記念館 学芸員 伊藤さん

展示室の様子

  医師を目指した少女時代-

伊藤さん「医者の家に生まれた彌生は、当時の女の子では珍しく小学校に通い、勉学に励みました。15、6歳の頃に新聞を読むようになると、新聞に書かれている東京の様子に感化され、東京に憧れを持つようになりました。その当時は自由民権運動が盛んに叫ばれた頃です。一方で、自由もなく大家族の中で家事に追われる母の姿を見て、彌生は心を痛めていました。“女性も男性と同じように社会に出て活躍できる場があるはず。”彌生はそう考えました」

 

長屋門および生家

伊藤さん「彌生が医師を志したのは、医者であった父の影響もありました。彌生の父は、貧しい患者には米を施し、無料で診察をしてしまうような人でした。彌生には自然と“人のためになることをしなくてはいけない”という気持ちが芽生えていきました。しかし、医師になるために上京して学ぶことに、父から反対されてしまいました。それでも彌生は、諦めずにおよそ2年間、ひそかに勉強をしていました。済生学舎には兄たちも在籍していました。そのことも父が入学を許してくれた大きな材料となりました」

 

 彌生が上京し、当時唯一女子を受け入れていた医学校・済生学舎に入学したのは 18 歳の時。

 女子学生の存在が非常に珍しく、彌生を含む女子学生たちは男子学生から冷やかされ、嫌がらせを受けました。それでも彌生は懸命に学び、晴れて日本で 27 番目の女性医師となりました。

 

 

   -夫・吉岡荒太との出会い-

伊藤さん「医師になってから一旦、故郷の掛川に戻り、実家の鷲山医院の分院でたくさんの患者を看た彌生は、“腕のいいのお医者さんがいる”と、評判になり、人気があったようです。その後、ドイツ留学を夢見て再び上京。ドイツ語を学ぶために学校へ通い始め、そこで院長をしていた吉岡荒太に出会い、結婚することになりました」

 

 展示室には「至誠一貫」という言葉が掲げられています。「至誠一貫」とは“一生を通じてすべての人に「まこと」の心で接する”という意味です。

展示室の壁面に書かれた至誠一貫

伊藤さん「彌生は、“至誠”という言葉を大切にしていました。“至誠”は、彌生の夫である吉岡荒太が院長を務めていた学校の名前(東京至誠学院)にも入っていました」

 -女性のための医学校設立-

   彌生が東京医科大学の前身である「東京女医学校」を設立したのは 1900(明治 30)年。きっかけは、「女子がいると風紀が乱れる」という理由で母校の済生学舎が女子の受入れを拒否したことでした。医師を目指す女性の道を絶たないために、そして家庭に入るだけではなく、仕事を持ち、経済的に自立することが女性には必要だと彌生は考えていました。

 

伊藤さん「彌生が女性のための医学校をつくることに、夫の荒太は理解を示し、とても協力的でした。人と関わるときは、いつでも真剣に真心を持って接し、夫婦二人で東京女医学校創立という大業を果たしました。学校は最初、自身が開いていた医院の1室から始まりました。それからしばらくすると生徒の数が増え、学校を移すのですが、学校とは思えない古い家だったので、生徒や保護者には随分不安がられたらしいです。彌生は空き家だった陸軍獣医学校を買い取り、校舎を大きくしました。専門学校昇格に向け、校舎を増築するにあたっては、設計士を頼むお金の余裕がなく、彌生自らが大工に指示を出したそうです」

 

 

 展示室には、東京女子医学専門学校の制服や校舎の模型も展示されています。

東京女子医学専門学校の制服等

 東京女医学校の専門学校への昇格、太平洋戦争後の教職追放ならび公職追放など、彌生は様々な波を乗り越えていきました。

伊藤さん「彌生は妥協のない人なんです。そして、ひと時も止まっている時がありませんでした」

彌生が愛用していた机(複製)

 2020 年 10 月現在、同記念館では常設展『吉岡彌生が残したメッセージ』が行われています(2021 年12月5日まで開催)。彌生自身が残したメッセージや、家族や教え子など周辺の人々が語った彌生を知ることができます。人としてのあり方や、社会でどうあるべきか女性たちに説いた言葉など、そのどれもが彌生の生きざま同様に力強さにあふれており、現代に生きる女性たちにも響くものではないでしょうか。

 掛川のパワフルな偉人・吉岡彌生の足跡を、ぜひ掛川市吉岡彌生記念館で辿ってみてください。

医療、看護、健康に関する資料の展示

※展示室内の撮影は禁止されています。掲載されている写真の二次使用はご遠慮ください。

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 掛川市吉岡彌生記念館 利用案内

 入館料:高校生以上/個人:200 円 団体:160 円(団体は 20 人以上)

     中学生以下/無料

 ※展示により、別途必要な場合があります。

 ※身体障がい者手帳・療育手帳・精神障がい者保健福祉手帳の交付を受けている方とその介助者 1 名は無料

 

 開館時間:午前 9 時~午後 5 時(入館は午後 4 時 30 分まで)

 休館日:月曜日・第 4 火曜日、展示替え時期、年末年始

 

 アクセス:住所 〒437-1434 静岡県掛川市下土方474

 ①公共交通機関

  JR 掛川駅から静鉄バス「大東支所」または「浜岡営業所」行きで約 20 分、「東京女子医大入口」下車、徒歩約 5 分

 ②車

  東名高速道路 「掛川」または「菊川」インターより約 15 分

 

  ※WEB サイトはこちら(外部リンク)

 

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ブックサポーター 吉岡彌生を知る

あざれあ図書室

『吉岡彌生伝:

 日本最初の女子医大誕生』

(武田勝彦 大東町教育委員会 1991年)

 女医として診療を続けながら、東京女医学校を創立した郷土の偉人・吉岡弥生の一生を、小学生時代からのさまざまなエピソードを交えて紹介します。出身地の教育委員会が発行したもので、小中学生から読むことができます。

 

 

『医者になりたい:

 夢をかなえた四人の女性』

(島田和子 新日本出版社 2015年)

 吉岡弥生が女医を育成するための学校を作ろうとしていたのは、「女に学問はいらない」と言われていた時代でした。時代と格闘しながらも、強い意志で自分の道を切り拓いた4人の女性たちの生き方を描いた1冊です。

 

 

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